クッツェー。名前は知っていた。ノーベル賞受賞(2003年)も知っていた。1940年南アフリカのケープタウン生まれ?アフリカーナー?(アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団)。未知の世界だ。1961年に英国に渡り、1965年に渡米、VISA取得がかなわず、1971年に南アフリカに帰国、2002年、オーストラリアのアデレードに移住、2006年にオーストラリアの市民権を取得!4大陸を漂浪した作家に俄然興味が湧き、邦訳最新作『イエスの幼子(おさなご)時代』(J・M・クッツェー著、鴻巣友季子訳/早川書房)を読んでみた。
過去を捨てノビージャという架空の国に、縁あって二人で逃げてきた初老の男シモンと孤児ダビード。新しい名前を与えられ、新しい人生を始める。公用語はスペイン語だが、シモンもダビードも(過去に何語を話していたかはわからないが)スペイン語を流ちょうに話し、言葉による齟齬(そご)はない。仕事も住居もあてがいぶちながら、普通の暮らしを二人は手に入れる。
ところが、ユートピア然としたこの国の空気は修道院のような清貧さ。まわりは“パンと水”だけで生きている人ばかり。若者たちは女性に興味すらなく(新手の草食系?)、夜は市民講座に通い!哲学を語ったりしてなんともうそ寒い。基本、いい人なんです、ええ、みんないい人なんだけれどね。
シモンはダビードの母親探しを使命と思っており、偶然出会った若い女イネスこそ母だと直感。突然の申し出に、同性からは到底好かれそうにない身勝手な女イネスはなぜか母になることを受け入れる。シモンはヨセフだけでなく大天使ガブリエルの役回りまで引き受けたというわけだ。厩(うまや)をすっとばし、かくして聖家族の物語がひもとかれていく。
子どもの執拗な「どうして?」の問いに対し、まじめに、ていねいに自分の考えを述べて説得しようとする実直なシモン。それなのに問答はつねにちぐはぐでなんの進捗ももたらさない。しかも最初から最後まで、過去や煩悩を捨てきれずあたふたする様に笑ってしまうのだが、でもでも血のつながらないダビードを深く愛するよきパパじゃないの。私はいつの間にかシモンを応援していた。聖書ではイエスやマリアの陰にかくれ、どこか損な役回りのヨセフがこの本では主役なのだから。
息子を溺愛するイネス、文字や読書、数学を教え、善き人になるよう導こうとするシモン。仕事仲間や隣人など、善良な人たちに囲まれてなんとかこの世界に適応しようとする三人だが、彼らの奔放さはこの国の秩序に収まりきらない。
親のいうことに耳を貸さず、甘やかされてわがままなダビードにイライラし、「どこがイエスの幼子時代やねん」と思いつつ、いったい何の寓話なのか、次はどんな展開になるのか、気になって気になって一気に読んでしまった。見えない権力から逃れ、三人の逃避行が始まり、この道のかなたには新しい街が、ダビードはやっぱりただ者じゃない、えっ、突然割り込んできたこの男は誰だ?さあこれからどうなる?というところで物語は唐突に終わってしまう。なんなの、この宙ぶらりん感は!聞けば続編はもう出版されているとか。翻訳が待ち遠しいです。ぜひぜひお願いします。
人は誰しも、ここではないどこかの、違う世界で生きてみたい、と思うことがある。両親や子ども、配偶者と一緒にもしこんな世界に放り込まれたら?この物語を私が案外身近に感じたのは、家族の物語だったからかも知れない。