今日のベルリンは、S7かU1のフリードリッヒシュトラーセ駅とアレクサンダープラッツ駅の間にあるハッケッシャーマルクト駅から始まります。今回はきままにぶらぶら歩いたので、ですます調でいきます。壁崩壊後、ここは旧東ベルリンで真っ先におしゃれな街に生まれ変わったところ。戦前はミッテ地区の中でもユダヤ人が多く住んでいた場所です。
ハケッシェンヘーフェ
古い建物がリノベーションされ、一躍有名になったハケッシェンヘーフェは駅からすぐです。ヘーフェとはホーフの複数形で、「中庭」という意味です。そして普通なら1つしかない中庭が8つもあるのでヘーフェなのです。外観は普通の建物。
中へ入ると建物に囲まれて中庭Iがあります。ちょっとウィーン分離派を思わせるようなタイル装飾。
四方で違う模様がにぎやかです。
中庭IIはまた趣が違います。
全体の構造はこんな風になっています。
中庭を結ぶ通路はこんな感じ。
中庭III。上の階は住宅やオフィスです。毎日観光客が押し寄せて、うるさいんじゃないかな、と心配になります。
中庭IV。以前は職人の工房と住居だったそうです。この曲がりくねった木はいつから生えているのかしら。木の後ろは小さな噴水。
どの中庭も、1階には雑貨や工芸のお店、ブティック、カフェなどが入っています。観光客に人気のアンペルマンのお店もありました。この建物の歴史が説明されたパネル。東ドイツ時代の写真も。
ソフィーエン通りからアウグスト通り
中庭VIIIから建物裏のソフィーエン通りに出て、画廊の多いアウグスト通りを回ってタッヘレスを目指しました。
見慣れない意匠なので思わず撮った写真。ユダヤ文化に関係するのでしょうか。
赤煉瓦の建物が気になって入ってみたのですが、右手の建物は開業医が集まった医療センターでした。
廃墟かと思ったらレストランでした。東ドイツ時代、ベルリンも他の地方も、表通りを除いて古い建物は修復もされず放置されていました。郊外に団地を建てた方が安上がりだったからだそうです。統一後、西の資本が入って多くの建物が再生されましたが、まだまだたくさん残っています。
レストランの前庭の囲いというか道路と敷地を隔てる柵というか。
こちらもリノベーション中のようです。変わった塔がついているけど、以前は何だったのかしらん。壁崩壊から来年で30年になるというのに、まだこういう場所が残っていたのですね。
タッヘレス
アウグスト通りがオラーニエンブルガー通りにつきあたったところにタッヘレスがあります。今はもう閉鎖されて、塀で囲まれていました。統一した頃は芸術家たちが廃墟だったビルを占拠して壁や天井に絵を描いたり、鉄の彫刻を置いたりして、いわば自由の象徴でした。
92年当時タッヘレスだったかその近所だったか、廃墟を利用したライブハウスに友人とでかけたのですが、東西の若者と私たちのような外国人でいっぱい。客は通路まであふれていました。お手洗いに行ったら薬を打っている人たちがたむろしていて、怖くて我慢したつらい思い出があります(笑)。八百屋を改造し、八百屋の看板をそのまま店の名前にしたカフェとか、当時はそういうのが流行でした。
戦後ベルリンの古い建物に住みはじめた人で「かつてこの部屋にユダヤ人が住んでいたかもしれない」と思わない人はいない、と聞いたことがあります。今はギャラリーやカフェが立ち並ぶオシャレな街だけれど、この辺からアレクサンダー広場までの一帯は(ハッケッシャーマルクト周辺も含め)、東方からのユダヤ人が大勢住む貧しい地区だったそうです。住人はナチスによって強制/絶滅収容所へ送られ、戦後は所有者不明の空き家が数多く放置されました。東西統一後にアーティストたちがいわば不法占拠した空き家には、そういう経緯があったのです。なんとも重い歴史です。
新シナゴーク
タッヘレスを背にオラーニエンブルガー通りを東へ進むと、大きな金色のドームを頂いた新シナゴークがあります。1861年に建てられた当時ドイツ最大のシナゴーグで、ナチスによる「水晶の夜」事件で放火されました。その後はずっと放置されていましたが一部が修復されました。私がいた頃はまだ修復中だったので、美しいドームと、併設されているユダヤ・センターを見学したいとずっと思っていたのです。ところがこの日はユダヤ教の安息日の金曜!休館で中には入れませんでした。
ユダヤ・センター入口には閉館中にもかかわらず警備員が立っていました。そういえば先日ベルリンで、中継中のイスラエルテレビのアナウンサー(女性)が通行人に嫌がらせされたというニュースもありました。これが現実です。
10年ほど前、ヒトラーお気に入りの建築家でベルリン建設総監から軍需大臣まで上りつめたアルベルト・シュペーアに興味を持ち、著書や伝記を読みあさったことがありました。シュペーアはベルリンをヒトラーの理想の首都「ゲルマニア」に改造する計画を立て、実行に移していました(オリンピックスタジアムなど)。どの本か忘れましたが、「首都改造には大規模な立ち退きが必要になるため、立ち退かせた人を、収容所に送り込んで空いたユダヤ人地区に住まわせようと考えた」と書かれてました(それが本当にシュペーアの考えだったかは不明)。それがこの地区のことだったのかも知れません。
歩道にもテーブルや椅子がゆったり置かれたカフェが立ち並ぶオラーニエンブルガー通り。戦前の住人たちは、どんな思いでこの道を歩き、シナゴークに通ったのでしょうか。