私のベルリン、私のドイツ (1)

この9月、旧友たちに会うべく、ベルリンには23年ぶり、ホストファミリー宅には14年ぶりで、ドイツを旅しました。ブログに旅行記を、と書き出したのですが、書けば書くほど心の中のドイツが過去を語りはじめるのです。私が初めてドイツの土を踏んだのが今から32年前。東ドイツのトップはホーネッカー議長、西はコール首相、日本は中曽根さんでした。壁崩壊前後の話をすると面白がってくれる友人たちが「読みたい!」と背中を押してくれたこともあり、もう覚悟を決めて思いつくままに書こうと思います。(登場人物はすべて仮名)

今までの滞在について簡単に

1986年2月ミュンヘン近郊のプリーン・アム・キームゼーという保養地にあったゲーテインスティチュートのドイツ語1か月コースに通ったあと、ドイツ・オーストリア・ハンガリー・スイス・ベルギー・フランスを1か月間バックパックで一人旅。帰国直後にチェルノブイリ原発事故が発生。

1989年9月天安門事件の3か月後、ブレーメンのゲーテインスティチュート2か月コースに通学。クラスメートに3人中国人(大学教員)がいて、互いを政府の手先だと疑い合って気の毒だった。東ドイツ末期のベルリンを2度訪ねる。帰国直後にベルリンの壁が崩壊

年初にバブル崩壊が始まった1990年の4月バイエルン州の小都市にある元ギムナジウム教員宅にホームステイし、小中高校や市民講座で日本語と日本文化を教える(半年間)。友人やホストファミリー、小学校の先生たちやギムナジウムの生徒たちと林間学校や修学旅行、学校の東西交流などでドイツ国内はもちろん、イタリア、オランダなどを旅行。帰国前に東西ドイツが正式に統一される。帰国した私を追いかけるように、ホストファミリーとその兄弟姉妹が総勢6人で日本を訪問。

1992年~1995年、統一からまだ間もない旧東ベルリンのフンボルト大学日本学部翻訳学科に留学。家賃が高騰し、家探しに苦労する。帰国直後に阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件

2004年6月、5歳の息子を連れてバイエルン州のホストファミリーを訪問(1週間)。またすぐ来よう、と思っているうちに東日本大震災を挟んで14年が過ぎてしまった。

ベルリン – 分断の跡をたずねて

思い出せるベルリンとの出会いは、例えば教科書に載っていたベルリンの壁。『舞姫』で知った「ウンターデンリンデン」という名の重々しく暗い響き。友人の祖父宅で見せてもらった戦前のベルリン地図。東西の境界線が引かれていないことが、どれほどの驚きだったか。

今回絶対行きたいと思ったのがオーバーバウム橋。東西の境界線だったシュプレー川に架かる橋で、当時数少ない徒歩での東西通路だった。もちろん一般市民は渡れなかったが。

Uバーン(U1)のシュレージッシェストア駅で降りる。ベルリンは赤煉瓦の建物が多いと思う。

地下鉄なのに高架の線路に沿って進めば橋はすぐだ。

シュレージッシェストア駅は壁崩壊後もしばらくは地下鉄U1の終点だったけれど、現在はオーバーバウム橋の上を通って旧東側へ続いている。橋そのものも美しく、今やベルリンの観光案内には必ず載っている。

歩いて渡る通路部分。映画『ラン・ローラ・ラン』に登場して有名になった。ハリー・ポッターにも出てきそうだ。

ベルリン中心部を望む。東ベルリンの象徴だったテレビ塔も見える。

橋を渡りきって左へ行くと、イーストギャラリーがある。ベルリンの壁の遺構で、観光客も多い。この先にはベンツスタジアムがあり、その手前のビルに大きなスリーポイントスターがそびえていた(見えるかな)。ベンツマークは西側ツォー駅近くのヨーロッパセンターの目印でもある。東西統一というよりも、資本主義を象徴する場所なのかもしれない。

壁はさらっと見ただけで、川辺に降りる。

朝早かったので逆光で、橋全体はうまく撮れなかった。ここから写真を撮るなら午後だ。9月中旬のドイツは異常気象で真夏のような日射し。川辺に寝そべる人、ジョギングする人。遊覧船のお客は朝からビールか? 川はゆっくり、ゆったりと流れていく。壁を越え、この川を泳いで西側に渡ろうとした多くの市民が撃たれ、殺されたとは思えないほど平和に。

89年に初めてベルリンに来たとき、チェックポイントチャーリーの前に立っても東側のことはまったく想像つかなかった。壁博物館では、引き裂かれた家族や命を落とした人の多さに何度も涙した。

あまり知られていないけれど、合法的に西へ移り住んだ人もいる。94年にゲーテインスティチュートのディプロムコースに通ったときの先生がそうだった。ミュンヘンに住む大金持ちで身寄りのない老人が、どうせだれにも遺産を残せないからと遠縁の先生一家を探し出し、東ドイツ政府に大金を支払って西に移住させたのだ。いくら払ったかは聞かなかったけれど、相当な金額だったらしい。

幼児二人と夫と共に先生がベルリンに越してきたのが1987年。そういう事情だったから東のスパイと疑われることもなく、ドイツ語の教師という安定した職も得て、私たちは本当に運がよかったと、先生は何度も口にされた。ただ、アパートで子どもが夜ちょっとうるさくすると近所の人がすぐ警察を呼ぶような都市部はストレスだったそうで、統一後にベルリン郊外に家を買って引っ越された。

その家にクラスメート全員を招待してくださったので、それぞれ思い思いのお国料理を作って遊びに行った。私はちらし寿司を作ったと思う。晴れた夏の午後、先生の家の周りは雑木林と麦畑。遠くに工場の金属塔がキラキラと光って、東ドイツに囲まれた陸の孤島がとうとうこうして解放されたのだと実感がわいてきてうれしかった。なぜか何度も大きく深呼吸したあの日のことを、まるで去年の夏のように覚えている。

 

私のベルリン、私のドイツ (2) 

私のベルリン、私のドイツ(3)

Comments

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“私のベルリン、私のドイツ (1)” への1件の返信

  1. あきーらさん、ありがとうございます。いろんなことを考えた旅でした。人生一巡りした感じです!

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