日本翻訳者協会が2012年から「世界翻訳の日」に発行
今年9月、機械翻訳について修士論文を執筆中の大学院生に協力してインタビューを受けたのですが、その方にこの冊子をお見せしたところ、インタビューで私がお話しした内容にもこちらの記事にも非常に共感したというお返事をくださいました。いろいろなところで、いろいろな人が心配しているのだと感じました。
どなたでもダウンロードしてお読みいただけます。自分の文章のみ、このブログに掲載しました。
翻訳と機械と朗読と
このところ、「機械翻訳が発達すると人間が翻訳しなくてもよくなる」、「翻訳者や通訳者は失業する」といったたぐいの話を目にしない日はない。人工知能(AI)が人間を超える日はまだ遠いだろうに、機械翻訳関係のシンポやセミナーが盛んに開催され、そのタイトルもやたらと扇情的だ。一般企業や翻訳会社による機械翻訳の導入はいっそう加速するだろう。使い物になるかどうかなんて二の次という光景は、20年ほど前のCATツール導入期と重なる。当時、「だいたいの意味がわかればいい」、「日本語になっていればいい」などとおっしゃる顧客さえあった。翻訳メモリの訳文がどんなにひどくても、短期間に大量の翻訳が安価にできれば質は問われなかった(いや、質は問われるのだが設定基準が低かった)。それが今、機械翻訳にバトンタッチされようとしている。
私は翻訳者の失業なんて心配していない。人間の翻訳が必要な仕事はなくならないと思うから。懸念されるのは言語の「ブラックボックス化」と「退化」だ。機械翻訳が人間の翻訳を超えるのなら苦労して外国語を学ぶ必要はなくなり、人間は機械翻訳の正誤を判断できなくなっていくだろう(ブラックボックス化)。悪意をもって誤訳を潜り込ませる人だっているかもしれない。機械の同時通訳で会話しても、果たして正しく相手に伝わっているのか、不審に思っても確かめるすべはなくなっていく。
さらに、AIがいわゆるdeep learningするにしても、学習の土台となるコーパスの質が低ければ低レベルの文章があふれかえることになる。そのような文章ばかり読んでいると人間の言語能力は低下するだろう(退化)。ただでさえ本を読む人が減り、さして難解だとは思えないような単語も通じなくなってきている。今やヨーロッパ言語から機械翻訳したおかしな英語が、和訳の仕事に紛れ込んでいる。いったいこの先日本語や英語はどうなっていくのだろう。
人間が紡ぎ出す言葉は、目や耳から入ってきた無数の言葉の海に浮かぶ小さな島のようなものだ。読めば読むほど海は広がり、浮島も大きくなる。その島を足場にして人はものを考える。足場がぐらつくようでは思考を巡らすことも、深く掘り下げることも難しい。そう考えて子供とこれだけは続けようと思ったのが読み聞かせだった。中学に上がるまで12年間、ほぼ毎晩親子で文学の世界にひたった。耳から入ってきた言葉で、子どもの頭の中に未知の風景が広がっていく。言葉だけで構築される時空を超えたさまざまな世界を、子どもより何倍も楽しんでいたのは実は私だった。
言語はもともと不完全なものだ。どんなに正確に表現しようとしても何かを取りこぼしてしまう。実務翻訳ではそのことを顕著に感じる。特許明細書がいい例だ。図なしでは複雑な技術を表現しきれないし、背景を補いながら読まないとうまく訳せない。その点文学はどのように読み取っても自由だし、人によって解釈が違っても一向にかまわない。けれども小説を読んで大半のネイティブが頭の中に描く(共通項のような)絵を、はたして私も同じように思い浮かべられているのかというと、これがはなはだ心もとない。例えばカフカを読むとき、ユダヤ系作家につきまとう「父と息子」というテーマを知らないとあの世界は見えてこないし、スタインベックの『怒りの葡萄』を読む時にオクラホマ、マザーロード、伝道師、機械化!などのキーワードを理解せずにあの時代のアメリカを思い浮かべることは難しい。もちろん、原文が理解できていないことがそもそもの問題だったりするのだが。言語の限界に外国語能力の限界が重なってにっちもさっちもいかなくなる。
最近、そんな状況を打開する方法を見つけた。それは、とっくにご存じの方も多いと思うが、ネイティブによる朗読だ。ありがたいことに、今はオーディオブックやラジオ、YouTubeなどでいくらでも手に入る。原文を読むだけではわからなかったことが、朗読の抑揚やリズムに身を委ねていくうちにすっと入ってくる不思議さよ。これはまさしく、子どもと楽しんだ読み聞かせではないか。人間の声が持つ、なんと豊かな表現力。言の葉の海に浮かぶ私の小島が、朗読の波に揺られて少しずつ育っていく。読み上げソフトには逆立ちしてもできないこと。人工知能にもまず無理だと、私の浮島は確信しているようだ。