『翻訳者の目線』2016

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日本翻訳者協会が2012年から「世界翻訳の日」に発行しているアンソロジー『翻訳者の目線』。もちろん私も寄稿しています。記念すべき5年目の冊子は、寄稿の呼びかけがあまりなかったためか、薄くなってしまったのが残念です。

今年のアンソロジーには、他の翻訳者や通訳者がどのように問題に対処し、解決策を見出しているか、未だ対策を練っている課題についてなど、実務に役立つ文章が集められました。

私は、やはり今回も趣を変えて、勉強会で読んだ若松賤子の名訳『小公子』、翻訳としての円地文子現代語訳『源氏物語』について書きました。

こちらからダウンロードできます。自分の文章のみ、こちらに掲載しました。

『翻訳者の目線』2016

明治の翻訳

ある翻訳勉強会で若松賤子訳の『小公子』(Little Lord Fauntleroy)を読んだ。リズミカルな会話と物語の意外な展開にどんどん引き込まれていく。村岡花子ほか戦後の主だった既訳を読み比べ、自分たちも一部翻訳してみて、あらためて若松はうまいなあ、と感心した。単に名訳というのではない、なんだろう、持って生まれた語りの力、次から次へとよどみなくつながる会話。しかも当時はまだかぎ括弧が使われず、会話の始まりが改行されているだけ。それでも、だれの台詞か迷うことはない。語りかと思えば台詞、台詞かと思えば心の声が地続きで聞こえてくる生き生きとした言文一致体。しかも若い女性の書いた明治の日本語に、私は感心するばかりだった。

ほとんど古びてないとはいうものの、125年も前の翻訳である。「女学雑誌」に連載された1890年当時の読者が感じた興奮を、現代に生きる私たちも同じように感じているとは限らない。原作が書かれたのが1886年だからほぼ同時に訳されているといっていいが、当時の日本、当時のアメリカ、当時のイギリスがどんなだったか、ニューヨークや東京の下町言葉やイギリス貴族の言葉使いがどうだったのか、服装は、仕草は、習慣は…。そう考えると登場人物の描き分けも含め、先駆者若松の苦心がいっそうしのばれる。

ちょっと本筋からは外れるが、何気ない言葉の意味が現代とは異なっているのも興味深い。例えば ” It is a hot day! ”が「今日はまたステキに暑いからなあ」、なんて平成の今でもなかなかステキな訳になっている。けれどもこの時代の「ステキ」は「めっぽう」という意味だったりする。“He began to see that something very remarkable had happened” は主人公セドリックが実は伯爵の跡継ぎだということがわかったときのホッブスさん(セドリックが仲良くしている食料品店の主人)の台詞。それが「どうやら不思議なことが、実際あったのだといふことは、少しづつ(原文ママ)飲み込めてきましたが」となっている。この「不思議」も「不思議ちゃん」の不思議ではなく、ここでは「前代未聞」というか「思いもかけないこと、予想外のこと」というニュアンスが強いはずで、ホッブスさんの受けたショックの大きさを表している。「空き箱」に「明箱」という字が当ててあるな、などと思いながらふと、当て字が大得意の夏目漱石を思い出した。1890年といえば未来の大作家も帝大英文科に入学したばかり。『吾輩は猫である』は15年も先の1905年に発表だ。若松賤子恐るべし。早世が実に惜しまれる。

さらに時代は下るが、私が好んで読んだ翻訳に「円地源氏」がある。もちろん彼女の小説も好きだが、源氏物語の口語訳には円地文子の文体を脱ぎ捨てた素(す)がにじんでいるようで好もしい。子どもの頃から慣れ親しみ、数え切れないほど読み返したという源氏の世界が心の中に広がっており、それを自分の言葉でていねいに描き出す円地にとって、源氏は「自家薬籠中」の物語なのだ。他の作家の現代語訳源氏もいくつか読んだが、円地源氏を超えたと思えるものは見つからなかった。

それほど心酔していても、原文を読んだときに流れている平安の空気は、円地源氏のそれとは異質だと感じてしまう。円地自身も文庫版「巻一」の前書きに「源氏の文章の仮名書きの名手の筆のような流線型の美は、現在の日本語では到底伝えられないし、無理に伝えようとすれば、逆な結果を生むことを(中略)痛感した。そして、敢えてそのつよさと軟らかさを兼ねた流線型の美を、現代訳の文章から削ぎ捨てていった」と書いている。円地文子ほどの書き手でも、原書の世界をこちらにそのまま持ってくることは不可能なのだ。しかし、そうであっても、訳者が楽しみ、歓び、苦しみを糧にして物語を紡ぎ出していることは、そこかしこでしっかり感じられる。それがあるべき翻訳の姿であり、読者もそれを共に楽しむのだと、若松と円地が耳元でささやいてくれる。

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