私のベルリン、私のドイツ (2)

ベルリン中央駅

ベルリンのICE終着駅は分断時代のツォー駅ではなく「ベルリン中央駅」。10年ほど前にできた新しい駅だ。ICEは地下に到着、Sバーン(都市鉄道)への乗り換えは2Fと、ドイツには珍しい立体的な駅だった

わたしの関心は、ここは以前何駅だったのか? 調べたら、「レールター」という駅で、Sバーンで東ベルリンに入る手前の駅だった。地味な駅でほとんど記憶にない。

89年当時、ここを過ぎると街が急に色をなくし、左手には、敗戦直後に瓦礫を積んで建てたような、弾痕でも残っていそうな建物、窓枠もなく人の気配もない建物が、線路ギリギリまで迫ってきていた。それを過ぎると、Sバーンで東ベルリンに入れた唯一の駅、フリードリッヒシュトラーセ駅だった。その区間、「今私は鉄のカーテンをくぐっているのだ」と心臓がばくばくしていたのを思い出す。

ベルリン中央駅の外に出ると、川向こうにも立派な建物が建ち、当時の面影はもうない。

 

インヴァリーデン通り

駅を出て右へ、インヴァリーデン通りを進むとシュプレー川にかかる橋があり、かつてここが境界線だったことが柵に刻まれている。縦書きとは珍しい。

 

橋の向こう、森鴎外が下宿していたというインヴァリーデン通りの奥まった左手には恐竜標本で有名なフンボルト博物館がある。右手に見える白い建物は大戦前までヨーロッパ最大の大学病院だった「シャリテ」。今はフンボルト大から独立して医科大学と付属病院になっている。

シャリテはもっと奥まで続いており、さらにその向こうがフンボルト大学。そして博物館島。こうして見ると、ベルリンの中枢部はみな東にあった。東西とも戦争で廃虚と化したとはいえ、西ベルリンの復興はどれほど大変だっただろう。ベルリン自由大学もゼロから立ち上げられた。

分断の影

89年、ダーレム美術館で好きだったクラナッハを見てから自由大学のそばを散歩していると、男子学生からやたらと声をかけられた(当社比)。旅行中困ったら電話して、と番号をくれた人もいた。ドイツを旅行していてそういうことはあまりなかったので、そのことがずっと頭の隅に残っていた。3年後、ベルリンっ子の友人にその話をしたら、当時の西ベルリンは若い女の人が少なかったから、と教えられた。

米英仏の軍隊が駐留し、東側と360度境を接する特殊な都市だった西ベルリン。ソ連によるベルリン封鎖も不安をあおった。東西のスパイが暗躍する冷戦時代に将来の希望は見えず、地価も下がり、見切りをつけて出ていったお金持ちも多かったそうだ。企業だって来たがらない。国が補助金を出して誘致していたと思われる。私の記憶では、シュプレー川沿いにBMWモーターサイクルの工場があった。こんなところになぜ? と思った覚えがある。さらに、西ベルリン在住の若者は兵役を免除された。それでベルリン自由大は学生数が多かったし、若い工場労働者もたくさんいたけれど、女性の人口が追いつかなかったのだ。

東西ベルリン旅行

89年、私は西ベルリンを2度訪れた(東ベルリンは1度だけ)。最初はブレーメンのゲーテインスティチュートのバス旅行で。まず西ドイツから東ドイツに入るときに検問があり、係官がバスに乗りこんで来てパスポートを確認して回った。ゲーテの先生が「係官は怖い顔をするけれど、できるだけ愛想よく、ニコニコしなさい」と言っていたのを覚えている。当然ながら、バスは許可された道しか走れないし、決められた場所以外で停車してもいけない。きっとずっと監視されていたんだと思う。トイレ休憩も東ドイツ領内では1度きり。先生もぴりぴりしていた。休憩所は殺風景で、人影はほとんどなかった。

ブレーメンに帰る日、午前中は自由に観光し、集合時間に各自がバスの駐車場へ集まるよう言われていた。ところが案の定、時間通り来ない人がいて先生は青くなった。置いて帰るわけにはいかないし、さりとて予定通りに出ないと国境でどんなイチャモンをつけられるかわからない。私たちは外国人だからまだいいけれど、先生たちはドイツ人だから話が余計ややこしくなる。携帯電話もない時代、先生が機転をきかせてホテルに電話し、連絡がついた。間違ってホテルに戻っていたのだ。運転手さんも先生も私たちも、遅れてきた子を拍手で迎えて無事帰途につくことができた。

2度目は、ゲーテのコースが終わってから日本に帰国する前に一人で行った。ブレーメン-ベルリンを飛行機で往復したのだが、東ドイツ領空を飛ぶこともあり、ベルリン航路は連合軍である米英仏の航空会社のみ。私が乗ったのはブリティッシュエアだった。ベルリン便はこれも国の補助で驚くほど安く、往復で8千円ほどだったと思う(金額の記憶にはちょっと自信がない)。便数も多かった。ただ、航空会社は割に合わなかったのだろう。行きも帰りも、搭乗前に飲み物とヨーグルトとサンドイッチが入った小さなビニールバッグを手渡された。いや、往路ではバッグが通路に山積み放置状態で、危うくもらい損ねるところだった。そんなどうでもよいことを覚えているのは、意外にもサンドイッチがとてもおいしかったからだけれども。

当時は東ベルリンに行くにも、東ドイツに入るにも、通行できる道路や交通手段はごくごく限られていた。

下の図はWikipediaのドイツ語版から借りてきた。最初にバスでブレーメンから東ドイツを通って西ベルリンに入ったのは、アウトバーン専用と書いてある14番に違いない。

前回触れたオーバーバウム橋は7番。西ベルリン市民のみ、と書かれている。ベルリン中央駅そばのインヴァリーデン通りの検問所は4番。こちらも西ベルリン市民のみだ。チェックポイントチャーリーは5番で、外国人と大使館員専用。フリードリッヒシュトラーセ駅は1番だが、通行人の限定はない。

ポツダム広場

長らく境界線の狭間で放置されていたポツダム広場は、上の地図の5番の左あたりにある。有名なソニーセンターをはじめ、今やビルが林立している。地上の駅舎も、その隣にあるドイツ鉄道のビルも、超のつくモダンさだ。

92年暮れ、マウリツィオ・ポリーニの演奏を聞くために初めてベルリン・フィルハモニーを訪れた。有名な話だからご存じかもしれないが、フィルハモニーは「東西が統一されたら東ベルリン市民にも便利なように」壁のそばに建てられた。それで最寄り駅がポツダム広場になった。

長年使われていなかったこの地下鉄駅に着いたとき、私と友人以外に降りる客はいなかった。しんとした駅の壁面に印された駅名は昔のまま(下の写真のとおりだったかは不明)。戦争中の空気がまだよどんでいて、家をなくしてここに逃げ込んだ人たちの声が聞こえてくるような気さえした。

階段で地上に上がると囲いも屋根もなく、まるでモグラのように、地面から人がヌッと出てくるように見えた。もう暗かったけれど街灯もまばらで、見渡す限り瓦礫と雑草以外何もない。遠くに見えるフィルハモニーらしき建物を目指して、戦争と分断の空気を吸いながら皆で歩いた。

前々から写真は見ていたけれど、今回の旅行ではポツダム広場に一番がっかりした。まるでなにもなかったような顔をしていたから。置かれている壁の断片さえどこか嘘っぽいのは、私の感覚がおかしいからだろうか。

ソニーセンターでお茶を飲んだ。一緒にいた息子に分断時代のことを話すのだけれど、心の中で「違う、違う」と声がする。人に伝えるってむつかしい。その晩会った留学時代の友人(旧東ドイツ出身)に話したら、大学生と小学生の息子がいるその友達は、「私たちの祖父母や父母が、戦争の話をするのと同じよ」と言う。

伝える意義はあると思う。たとえ相手にその気がなくとも。けれど、そもそも伝えることは可能なのだろうか。どうすれば伝わるのだろうか。そんなことをずっと考えていた旅だった。

 

私のベルリン、私のドイツ (1)

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